静まり返った執務室で、克哉は所在なさげに立ち尽くしていた。
時計の針が刻む音だけが室内に響いている。その秒針は、克哉自身の心臓の音と連動していた。
報告に訪れてから御堂と二人きりだったが、その間特に会話もない。
あからさまに不機嫌そうな表情の御堂は、無言のまま手にした書類を眺めていた。
克哉は気まずそうに俯いていたが、目線を上げて御堂を盗み見る。
その表情は険しく、御堂自身の不機嫌さを物語っていた。
「――御堂さん」
声をかけられた瞬間、御堂は克哉を鋭く睨む。
思わず克哉は首をすくめる。まるで蛇に睨まれた蛙だ。
しかしここで声を掛けなければ、さらに誤解を生むかもしれない。
そう思い、克哉は覚悟を決めて御堂に向かう。
「聞いてください、御堂さん」
間髪いれず、御堂は皮肉気味に返す。
「――君は暇なのか」
侮蔑の笑み。鼻で笑う仕草。
初めて克哉が御堂に会った時の表情。それによく似ていた。
御堂は、それ以上言葉が続かない克哉を一瞥する。
「見ての通り、私は忙しい」
さらりと返すと書類に目を逸らし、業務を続ける。肩を落とす克哉に、さらに御堂の言葉が圧し掛かる。
「君のように、他の男と遊んでいる暇なんてない」
その言葉に、一瞬で克哉の顔が赤く染まる。
「図星か?」
克哉の表情を見て、御堂は冷たく笑う。
あんな風に怒らせるなんて……。
先程の出来事を思い出して、克哉は溜め息を吐く。
発端は、MGNに本多が訪れたことから始まった。
普段本多から電話は来るけれど、克哉がMGNに転職してからはなかなか時間が合わず、お互い顔を合わせるのも久しぶりだった。
「克哉、飯いかないか?」
そう本多から誘われて、克哉は二つ返事で誘いに乗る。
「じゃあ白衣おいてくるから」
エレベーター前に本多を待たせると、克哉は白衣を脱いで綺麗に畳み、研究所へ返しにいく。
小走りに戻ると本多が片手を上げて、克哉を呼ぶ。ちょうどエレベーターが来たらしい。
本多とエレベーターに乗ろうとしたとき、背後から聞き慣れた声が掛かった。
「佐伯くん」
克哉が振り返ると、背後に御堂が立っていた。
「あ、御堂さん」
克哉は満面の笑みで御堂に話しかけたが、御堂は生返事をした。
その視線は克哉から逸れていた。
御堂は少し眉をひそめて、克哉の隣にいる本多を一瞥する。
本多もその視線に気づいたのか、御堂を睨み返す。
無言のまま、その状態が続いた。実際にはほんの数秒のことだったが、克哉には何時間にも思えた。
重苦しい雰囲気に耐えかねて、克哉は空気を変えるように話を振る。
「あ、あの」
二人の視線を感じつつ、克哉は思いつく最善の方法を考える。
「これから本多と飯へいくんですが、御堂さんもどうですか?」
精一杯の笑顔で御堂に話しかける。
御堂は何か言いたげそうに視線をよこしたが、克哉は見なかったことにした。
本多もいいよな、そういいかけたとき、本多が不満を漏らす。
「おい、克哉――」
なんでこいつと、大体飯が不味くなるだろう。
克哉の耳に、本多の呟きが聞こえてくる。
呟きといっても本多は地声から大きいので、余裕で御堂の耳にも届いているのだが。
その言葉に反応したのか御堂は、まったく表情を変えずに会話を切り出す。
「佐伯くん、食事なら私に付き合いたまえ」
そういうと不敵に笑う。
「場所は――そうだな、和食なんてどうだ。あの店の刺身は君も好きだろう」
そういって、笑みを浮かべて克哉だけに話しかける。
「お刺身……」
克哉は唾を飲み込む。
この前御堂さんに連れて行ってもらったけど、すごく美味しかったなあ……。
克哉のぐらつきに気付き、本多は御堂に食いかかる。
「ちょっと待てよ! 克哉は俺と飯にいくんだぞ!」
「そ、そうだよね」
一瞬気持ちが揺れた克哉だったが、慌てて思い留まる。
「やっぱり、オレ本多と約束してたんで……」
克哉がとても残念そうにいうと、御堂は軽く舌打ちする。
少し疲れた克哉は、閉まったエレベーターの扉に寄りかかった。
その時急に扉が開いて、克哉はバランスを崩す。
「うわっ」
エレベーター内へ倒れかけたとき、本多が素早く克哉の腰を捕まえた。
傍から見ると、本多に抱きしめられる形となった。
「あ……助かったよ、本多」
「大丈夫か、克哉。ったく気をつけろよな」
そういうと本多は、克哉の腰にまわしていた手を放す。
笑顔で頷くと、再び御堂の顔を見る。
最初御堂は呆然とした顔をしていたが、次第に険しい顔に変わった。
「――失礼する」
その一言を残して、御堂は去った。
「あれは――」
たまたまだった、そういおうとした。しかし言葉が続かない。
御堂は苛立ちを隠せず、吐き捨てるようにいう。
「もういい、下がれ」
その言葉に、克哉は衝撃を受ける。
「御堂さ……」
「下がれといっている」
強めの口調でそう言い放つと、再び御堂は机上の書類に目を向ける。
もう克哉の顔を見る気がないとばかりに。
「――御堂さん」
うつむいた克哉の声はか細く、切なく掻き消えた。
克哉が肩を落として廊下を歩いていると、見かけた藤田が声を掛けてくる。
御堂とのことでしょげる克哉に、不釣合いなほど明るい声で。
「あれ、佐伯さん。どうしたんですか?」
「藤田くん」
克哉は一呼吸置いてから、明るく振舞う。
「――いや、なんでもないよ」
そういって、にこっと笑った。営業で身に着けた技だ。
「そうですか?」
藤田は怪訝そうな顔をして、克哉を見る。
その素直な視線に真意を見破られそうに感じて、内心克哉は焦っていた。
「御堂部長に絞られたのかなと思ったんですけど」
「えっ」
思わず克哉は表情に出してしまい、しまったとばかりに自己嫌悪に陥る。
「あっ図星だ」
藤田はまったく悪びれない様子で笑う。
「そっ、そんなことないよ」
克哉は平静を装うが、もう遅い。
気にしなくていいですよ、と藤田はマイペースに話す。
克哉は申し訳なさそうに俯いた。
「部長って言葉はきついけど、佐伯さんのことは信頼してますよね」
「そうかな……?」
克哉は自信なさげに返す。そうですよ、と藤田の声が続く。
「あと佐伯さんがいないときなんて、落ち着きないんですよね。誰も信じてくれないけど――」
そういいかけて藤田は口をつぐむ。
「あ、佐伯さん、俺ちょっと用事を思い出しました」
話もそこそこに、藤田は忽然と姿を消す。
「どうしたんだろう」
首をかしげる克哉の後ろで声がする。
「――佐伯くん」
振り返ると御堂がいた。
「話がある」
――執務室へ、それだけ告げると御堂は踵を返す。
姿勢よく歩く御堂の後ろを、克哉は慌てて追いかけた。
「――すまない」
執務室のドアが閉まる音と同時だった。突然、御堂に謝られて克哉は困惑する。
「御堂さん?」
「君に当たるつもりはなかった」
そういうと御堂は窓際に立つ。
夕陽が差し込み、逆光のためか克哉からは御堂の表情がよく見えない。
「あの……オレ気にしてませんから」
それだけ言うと、克哉は御堂の元へ近づく。
「オレが悪かったんです」
克哉の言葉を聞いて、御堂は驚いた。目を見開き、克哉を見つめる。
「君は何をいって――?」
その問いを遮るように、克哉はゆっくりと続ける。
「本多と先に約束してたから、御堂さんに悪いことを――」
御堂は、克哉の言葉をきいて盛大に溜め息をついた。
「君は何をいっている」
「えっ、違うんですか?」
本気で思っていた克哉は、困った顔をする。
「――君の認識では、私は小学生並ということか。莫迦莫迦しい」
軽く眉をひそめたが、その口元は笑っていた。
「君が倒れそうになったとき、真っ先に助けたのが本多だっただろう」
克哉はそのときのことを思い出す。呆然とした御堂の表情を。
「本多が君に触れたことも赦せないが、何より私は自分が赦せない」
「御堂さん?」
「――克哉」
御堂は克哉の名前を呼ぶと、まっすぐに克哉の目を見つめる。
「君を助けるのは私だけだと自負していた。なのに君を助けたのは私ではなかった。何よりそれが赦せない」
言い切ると御堂は、克哉の身体を力強く抱きしめる。
御堂のフレグランスの香りがして、克哉の動機が激しくなる。
「御堂さん、オレ――」
「どうした克哉?」
御堂は、怪訝そうな表情で克哉を見つめた。
仕事中だというのにも関わらず、熱っぽく見つめる克哉の視線に御堂は少し戸惑った。
眼鏡を掛けたときとは違う儚さ。
有能であることを恐れるかのように、常に何かにおびえていた。卑屈なまでに自分を隠す存在。
御堂はそんな彼に興味をもち、苛立ち、気がついたら目が離せなかった。
その克哉が今、御堂に何かを求めている。
さらに克哉に触れたくなり、さらに克哉を求めようとする。
御堂の行動に気づいた克哉は、慌てて後ずさりをする。
その拍子に後ろにあった椅子にぶつかり、バランスを崩す。
「あっ……」
御堂は咄嗟にその体を引き寄せ、自分の腕の中に抱え込む。
あまりに一瞬のことだったので、克哉は何がおきたのか分からず、おとなしく御堂に抱きしめられていた。
しばらくして我に返った克哉は、耳まで真っ赤に染めて俯いた。
「み、御堂さ……」
舌がもつれて、最後まで言葉がでない。
「は……放してください、御堂さん……」
やっとのことで声を絞りだすと、克哉は目を逸らして小さく抵抗する。
わずかな抵抗を見て、逆に御堂は嬉しそうな顔をした。
克哉の耳元で、意地悪そうに囁く。
「――あんな目で私を見つめておいて、何を今更」
そんな、といいかけて克哉は御堂を見上げた。
真っ直ぐな視線がぶつかり合う。
克哉の頬はさらに赤く染まった。
克哉が本気で抵抗していないことを確信して、御堂は口元を綻ばせ、そっと口付ける。
「あ……みど……」
唯一抵抗していた口を塞がれ、克哉はなすがままにされていた。
息をしようと薄く開いた唇に御堂の舌が入り込み、そのまま克哉の舌を絡めとる。
御堂が求める以上に、克哉も御堂を求めていた。どちらのものとも分からない唾液が溢れ出す。
次第に、お互いの息遣いが荒くなる。御堂の舌が克哉の歯列をなぞると、かすかに声が漏れた。
途端に克哉の腰から力が抜け、御堂から押し倒されるような格好で机に上半身を預ける。
「――残念ながらあまり時間がない」
御堂はそういって笑うと、克哉のシャツを捲り下から肌をまさぐる。平たい胸に手を伸ばすと、克哉の反応が変わる。
軽くつねると呻きが漏れた。
「相変わらず敏感だな」
「――そん……な……」
再び言葉を遮るように、御堂は強く舌を吸う。言葉では否定しつつも、克哉は御堂を貪欲に求めてくる。
御堂自身も余裕ぶってはいるが、克哉との愛撫に呑まれそうになっていた。
この私が――こんなに必死になるとはな。御堂は軽く自嘲する。
どんなに求めても、求め足りない。はじめから克哉の存在は自分を苛立たせた。
自分のものにならないと思うだけで苛立つし、克哉が自分以外のものに抱かれる、そう思うだけでもう限界だった。
「――誰にも渡さない」
御堂は誰にいうわけでもなく嘯(うそぶ)くと、克哉の肌に口付けをしていく。熱い唇が肌に触れるたびに、克哉は乱れた。
その反応に、御堂は歓喜する。
――私だけを求めろ。
よがり狂う克哉を抱きしめながら、心の中で御堂はそう願った。
*****
夜も更けた頃、御堂がマンションへ戻ると部屋の中は真っ暗だった。
慌てて電気をつけると、ソファの片隅で克哉がうずくまっていた。
御堂は克哉の隣に座って、肩を抱き寄せる。御堂にもたれかかるようにして、克哉は溢す。
「――オレ、もう生きた心地がしなかったです……」
行為の最中、急に予定が早まったらしく来客があった。告げに来たのは藤田だ。
ノックの音が響いた時、焦った克哉はどうしようどうしようと慌てていたが、御堂は機転を利かせて口頭で受け答えをしつつ、
すばやく克哉の衣類を直した。
『すまないがコーヒーをこぼしてしまった。こちらは佐伯くんに任せるので、応接室に通してくれないか。至急、私もそちらへ向かう』
そういうと、御堂は克哉に口付けをした。
克哉はそのときのことを思い出して、再び塞ぎこむ。
「確かに時間がないとはいったが、まさか30分も早まるとはな」
そういいながら、まったく悪びれない御堂。
「――次は自重してくださいね」
少し困ったようにいう克哉に、御堂は笑う。
「それは無理な相談だな」
「どうして――」
その問いは、御堂の唇で遮られた。唇を放したあとも、顔を近づけたまま囁く。
「――君は無意識に私を誘う」
至近距離から御堂に見つめられ、そんな言葉をいわれて克哉は頬を染める。
「そして私も――そんな君を手放す気がないからだ」
最初克哉は何をいわれたのか分からず、ぼんやりと御堂を眺めていた。
言われた内容に気付くと恥ずかしそうにしていたが、満足そうな表情で御堂に笑いかけた。
END
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