目覚めてからずっと、佐伯克哉は苛立っていた。
 寝る前に閉め忘れたカーテンのおかげで、眩しいほどの光が部屋中に差し込んでいる。その光にも寝起きの気だるさにも克哉は苦々しく思う。
 熱いシャワーを浴び、器用にネクタイを締めると、机の上に置いてあるカードキーを無造作に手に取る。
「――ちっ」
 克哉は軽く舌打ちをすると、コートを羽織って部屋を出た。

 空には薄靄のような、分厚い雲がかかっていた。
 ひんやりとした空気が肌に触れる。
 それでも克哉の気分は晴れない。心にも靄がかかっているようだった。
 眼鏡を掛け、本来の自分を取り戻してからというもの、こんなにも苛立ちを感じたことはなかった。
 常に高揚感に包まれ、何もかも自分の思い通りに進んでいた。
――御堂の件以外は。
 御堂孝典。
 その名前を思い出すだけで、克哉の気持ちが揺れる。
――もう御堂のことは、忘れたんだ。
 それは自分の決断。
 御堂のため――克哉は、そう自分に言い聞かせていた。
 本当は、自分がこれ以上御堂を傷つけたくなかった。
 傍にいたら、何をするか自信がなかった。
 御堂に対しては余裕がない、それは克哉自身も分かっていた。
 一向に、克哉自身に従わない存在。
 克哉が欲すれば欲するほど、求めれば求めるほど、御堂が遠ざかっていく気がしていた。
 だから克哉は焦り、更に御堂を傷つけていた。
 そして御堂から、何もかもを奪い取った――これが結果だ。
 御堂に対しての償い、そして自分への罰。
 克哉は、人通りがまばらになったオフィス街を歩く。
 たまに御堂を彷彿とさせる、背格好が似た人物とすれ違っては、振り返って自己嫌悪に襲われる。
「――俺はどうかしているな」
 克哉は自嘲する。
 何度忘れようとしただろう。何度夢に見ただろう、御堂のことを。
 自分の下した決断のことを。
 他にどうすればよかったのだろう。
 責任をとろうとも考えた。御堂が社会復帰するまで。
 しかし御堂は、克哉を最後まで拒絶した。それが御堂の選択だ。
 少なくとも克哉はそう思っていた。
 御堂のことを思い出さないように、さらに仕事に打ち込んだ。しかし熱中すればするほど、克哉はどこか足りないものを感じていた。
 以前の御堂と同じ立場に上がっても、克哉を満たしてくれる存在は現れなかった。

 克哉は新プロジェクトの契約をするため、相手先へ直接向かうことにした。
 昨日のうちに、直行の旨は伝えてある。
 朝は若干のんびりできる――はずだった。
 夢の中でも、克哉は御堂を傷つけていた。その行為を何度も繰り返す。
 苛立ちを募らせながらも、行為に歯止めがきかない。
 眼鏡のない克哉が、自身を諌める声も聞いていた。
 それでも克哉の行動は止まらなかった。
――焦り、苛立ち、嫉妬。
 複雑な感情が入り乱れ、克哉自身を暴走させていた。

 眼鏡のない佐伯克哉、あいつだったら御堂を傷つけなかったのだろうか。
 あいつだったら、御堂は幸せになれたのだろうか。
 二度と手に入らない、孤高の存在。
――俺は何を馬鹿なことを。
 もう一人の<オレ>は消えたんだ。何を今更。

 物思いに耽っているうちに、克哉は目的のオフィスビルへたどり着いた。
 今日訪問する会社は他に比べたら小規模であったが、最近急成長していた。すこぶる評判も良い。
 克哉が見た限り、提案書の内容は他社と比較しようもないほど完璧だった。
 まるで御堂のような。
 以前御堂が情熱をかけていたプロトファイバーの案も、すべてが緻密だった。
 何度も練り直した結果だろう。
 そんな完璧主義者の御堂を思い出すような、すばらしい提案書だった。
 しかし、いくら探しても作成者名は見当たらなかった。
――俺の好みを知り尽くしている。
 やはり藤田のいうとおりか……?
 藤田の声が、克哉の脳裏に浮かぶ。
――御堂さんは、前から声を掛けられていた会社に移ったみたいですね。
 あいつの情報網は末恐ろしいな。
 克哉はそう思うと、ふっと笑う。
 その会社名は克哉自身も知っていた。他社に訪れた時の会話で、たまたま耳に入ったのだ。
 ここ最近の注目株である。業界紙に取り上げられるのも時間の問題だ。
――藤田の噂は当てにならんが。
 そう思いつつ、克哉の心は揺れていた。
――俺は何をするつもりだ。
 藤田の噂を聞いた時から、自問自答する心とは裏腹に克哉は行動を起こした。
 克哉自身、今思い起こしても何故あんなに必死だったのか分からなかった。
 気がつけば渋る大隈専務を始め、上層部を説得しはじめた。
 その会社の有能性、将来性を語った。克哉自身も強引すぎる説得だと思った。
 注意を促す大隈専務や、頭ごなしに却下する上層部に対し、今後のMGNにどれだけのメリットが生じるかを熱く語る。
 大げさな営業トーク。頭の中では次々とインパクトのある表現が浮かぶ。内心克哉は心に焦りを感じていたが、表情には出さなかった。
 長時間の説得の末、まず大隈専務が折れた。
 すると上層部が次々と折れ、思うように成果があがらなかったときは、克哉が責任をとるという形で何とか承諾させた。
 克哉は急ぎ、噂の会社にコンペの参加を促す。
 他社に比べたら、はるかに企画期間は短い。それだけの間にどれだけの提案書を作り出すか、克哉は賭けていた。
 普通ならきびしい条件だ――だがそれが御堂だったら? 克哉は期待した。
 御堂に会いたいわけじゃない、克哉はそう自分に言い聞かせる。
「――俺は、昔のままの御堂が見たい」
 それだけだった。
 本音が漏れる。
 それで克哉自身の罪が許されるわけでもない。過去がなくなるわけでもない。
 一年前に御堂の元から去った行動が、御堂にとって最善の選択だった。
 克哉は自分自身に、そう言い聞かせたかった。
 御堂がこの会社にいるとは、決まっているわけでもないのに。
 何とか無表情を装っているが、どうしようもない不安が克哉を襲う。
 急な突風が吹き付けた。まるで克哉の背を押すかのように。
 意を決して、克哉はエレベーターへ向かった。

 通された応接室に、作成担当者の姿はなかった。満面の笑みを浮かべた社長が控えているだけだった。
 複雑な感情を押し殺し、克哉は笑みを浮かべて契約を交わす。
 特に支障もなく完了した――はずだった。
 思わぬところで紹介された人物。
「失礼します」
 静かな部屋に、抑揚のない声が響いた。今朝も夢の中で聞いた声そのものだった。
 表情には出さなかったが、内心戸惑っていた。
 克哉は昔と変わらぬ姿――初めて出会った頃の御堂を見た。
 綺麗に整えられた髪、一糸乱れぬ姿。自信に満ち溢れていた御堂。あの時のままだった。
 その中で自身を見つめる御堂の視線に戸惑いを感じ、克哉は自分の過ちに気付く。
 同時に克哉は、どこか安堵していた。
 克哉自身が御堂の中に刻まれているのを知ったからかもしれないし、昔の御堂に戻りつつあると知ることができたからかもしれない。
 少なくとも最後の決断だけは、間違っていなかった。克哉はそう思った。
――もう充分だ。
 克哉は眼鏡を直す振りをして一度視線を逸らし、もう一度御堂を見つめた。
 迷いはなかった。
 これ以上ない満面の笑みを浮かべる。
 そして、
「初めまして、御堂さん」
 これでいい。
 克哉は誰にも聞こえないように呟き、御堂に右手を差し出した。


END

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